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#181.ラジオの話
私が子供の頃はまだテレビはなくラジオの時代でした。そして、元来機械
いじりが好きだった事もあって、ラジオ作りに熱中したものでした。
戦争中(13歳頃)は暫くの間 御殿場に住んでいたのですが、若者は戦争に
駆り出され人出不足だったので、近所の農家の手伝いによく行っていました。
その農作業の合間に楽しんでいたのが…ラジオ作りでした。当時は真空管を
使ったラジオですから、今皆さんが使っているようなコンパクトな物でなく、
B5用紙位の大きさの箱の上に組み立てていく感じです。

電源を入れると真空管のフィラメントが赤く光って、「ちょっとした生き
物みたいだな」と思ったものです。材料も簡単に手に入る訳ではなく、電気
屋さんに行って電線などを買って来て自分でコイルを作ったりしましたので、
手が掛かる分面白かったし、電気屋さんとも仲良くなりました。
その内に戦争が終わり御殿場にもアメリカの駐留軍がやって来たのですが、
電気屋さんにはラジオの修理依頼が沢山来て、結構忙しくなりました。
ある日電気屋さんのご主人に「服部さん、ラジオの修理が出来るのだから
手伝いに来てくれない?」と頼まれました。自分の勉強にもなると思ったの
で週2回程お店に通う事になりました。
修理するのは古いラジオが多かったので、ハンダ付けで線を繋ぎ直したり、
真空管を取り替えたりする程度の事で、大して難しい仕事ではありませんで
した。終戦後暫くは電力不足でよく停電しましたし、電圧も下がってしまう
事もしばしばで、そうなるとラジオがよく聞こえなくなってしまうのです。
ある時お店へ来たアメリカ兵がラジオを見せて「Sometime she go, but
sometime she doesn’t go !」と言っていたのを聞いて、「ラジオの事を"she"
と言っている・・・」のがとても印象的で、今でもしっかりと覚えています。
その頃はラジオのために小さな「昇圧トランス」という物を買って使った
ものです。つまり電圧が100Vを下回ってしまうと具合が悪いので、トランス
を使って上げていたのですが、電気屋さんとしては修理は勿論ですが、この
トランスが沢山売れたのが実にいい商売になっていたようです。
東京に戻った後になりますが、父が使っていたラジオがよく故障するよう
になった時に「これに負けないような、いい音のラジオを作ってみなさい」
と言われました。
この頃の父のラジオはラッパ型のものではなく、当時としてはかなり性能
の良い物だったようで、ラジオをつけておくと人が来て話しているのと間違
われた・・・つまり肉声と変わらない位音が良かったという事です。
父の期待に応えるべく私もかなり一生懸命組み立ててみましたが、どうも
父が満足するような物はできませんでした。やはりラジオ作りよりは洋服屋
向きだったのでしょう。
いじりが好きだった事もあって、ラジオ作りに熱中したものでした。
戦争中(13歳頃)は暫くの間 御殿場に住んでいたのですが、若者は戦争に
駆り出され人出不足だったので、近所の農家の手伝いによく行っていました。
その農作業の合間に楽しんでいたのが…ラジオ作りでした。当時は真空管を
使ったラジオですから、今皆さんが使っているようなコンパクトな物でなく、
B5用紙位の大きさの箱の上に組み立てていく感じです。

電源を入れると真空管のフィラメントが赤く光って、「ちょっとした生き
物みたいだな」と思ったものです。材料も簡単に手に入る訳ではなく、電気
屋さんに行って電線などを買って来て自分でコイルを作ったりしましたので、
手が掛かる分面白かったし、電気屋さんとも仲良くなりました。
その内に戦争が終わり御殿場にもアメリカの駐留軍がやって来たのですが、
電気屋さんにはラジオの修理依頼が沢山来て、結構忙しくなりました。
ある日電気屋さんのご主人に「服部さん、ラジオの修理が出来るのだから
手伝いに来てくれない?」と頼まれました。自分の勉強にもなると思ったの
で週2回程お店に通う事になりました。
修理するのは古いラジオが多かったので、ハンダ付けで線を繋ぎ直したり、
真空管を取り替えたりする程度の事で、大して難しい仕事ではありませんで
した。終戦後暫くは電力不足でよく停電しましたし、電圧も下がってしまう
事もしばしばで、そうなるとラジオがよく聞こえなくなってしまうのです。
ある時お店へ来たアメリカ兵がラジオを見せて「Sometime she go, but
sometime she doesn’t go !」と言っていたのを聞いて、「ラジオの事を"she"
と言っている・・・」のがとても印象的で、今でもしっかりと覚えています。
その頃はラジオのために小さな「昇圧トランス」という物を買って使った
ものです。つまり電圧が100Vを下回ってしまうと具合が悪いので、トランス
を使って上げていたのですが、電気屋さんとしては修理は勿論ですが、この
トランスが沢山売れたのが実にいい商売になっていたようです。
東京に戻った後になりますが、父が使っていたラジオがよく故障するよう
になった時に「これに負けないような、いい音のラジオを作ってみなさい」
と言われました。
この頃の父のラジオはラッパ型のものではなく、当時としてはかなり性能
の良い物だったようで、ラジオをつけておくと人が来て話しているのと間違
われた・・・つまり肉声と変わらない位音が良かったという事です。
父の期待に応えるべく私もかなり一生懸命組み立ててみましたが、どうも
父が満足するような物はできませんでした。やはりラジオ作りよりは洋服屋
向きだったのでしょう。
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