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#113.懐かしい乗り物 その壱
私が子供の頃、母に連れられてデパートへ買い物に行く時に、よく”円タク”
を使いました。その頃のタクシーにはメーターが付いてなく、東京をどこ迄
走っても1円…と云う事で円タクと呼ばれていましたが、実際には車を止め
てから運転手さんに行き先を告げて、値段を交渉するやり方でした。
当時私の家は芝(住所では新橋7丁目)にあって、三越本店によく行った
のですが、60銭位だったと思います。デパートの帰りに銀座の木村屋へパン
を買いに寄ることもあり、そんな時も「ちょっと木村屋でパンを買いたいか
ら少し待ってもらえますか?」と話すと、運転手さんが「それじゃあ10銭増
して下さいな」と返答してくるという具合です。
私が学校へ通う時には市電(まだ東京市でした)を利用していましたが、
これがちょうど7銭でした。当時は乗り継いで遠くに行く時も、車掌さんに
言うと乗換切符というのを発行してくれて、どこまで行っても7銭でした。
家のすぐ近くに「浜松町1丁目」という停車場があったのですが、ここは
ある運行路線の終点だったので、お客さんが降りた後は反対方向へ出発する
事になります。
当時の市電は、屋根の上に電気を取るための長いポールが付いたのですが、
終点からは逆向きに発車をするために、ポールの向きを反対側に移動させな
ければなりませんでした。そこで、車掌さんがポールから出ているロープを
引っ張ってポールを反対向きにしていたのですが、子供の私たちにはその作
業がとても面白くて、よくポールを引っ張る仕草を真似して遊んだものです。


少し後の話しになりますが、結婚をしたての頃に家内と車で横浜に行った
事がありました。横浜はあまり詳しくなかったので、走っている内に道に迷
ってしまいました。少し走っていると線路のある道に出たので「しめた!」
と思って線路に沿って走ってみたら、ちゃんと国鉄(今のJR)の駅のある所
に出たので、場所も何となく分かって無事帰る事ができました。線路という
のは道標(みちしるべ)にもなるのだなぁ…と感心したものです。
今や都電は1系統だけになってしまいましたが、私には身近にあった乗り
物としてとても思い出深いものです。
を使いました。その頃のタクシーにはメーターが付いてなく、東京をどこ迄
走っても1円…と云う事で円タクと呼ばれていましたが、実際には車を止め
てから運転手さんに行き先を告げて、値段を交渉するやり方でした。
当時私の家は芝(住所では新橋7丁目)にあって、三越本店によく行った
のですが、60銭位だったと思います。デパートの帰りに銀座の木村屋へパン
を買いに寄ることもあり、そんな時も「ちょっと木村屋でパンを買いたいか
ら少し待ってもらえますか?」と話すと、運転手さんが「それじゃあ10銭増
して下さいな」と返答してくるという具合です。
私が学校へ通う時には市電(まだ東京市でした)を利用していましたが、
これがちょうど7銭でした。当時は乗り継いで遠くに行く時も、車掌さんに
言うと乗換切符というのを発行してくれて、どこまで行っても7銭でした。
家のすぐ近くに「浜松町1丁目」という停車場があったのですが、ここは
ある運行路線の終点だったので、お客さんが降りた後は反対方向へ出発する
事になります。
当時の市電は、屋根の上に電気を取るための長いポールが付いたのですが、
終点からは逆向きに発車をするために、ポールの向きを反対側に移動させな
ければなりませんでした。そこで、車掌さんがポールから出ているロープを
引っ張ってポールを反対向きにしていたのですが、子供の私たちにはその作
業がとても面白くて、よくポールを引っ張る仕草を真似して遊んだものです。


少し後の話しになりますが、結婚をしたての頃に家内と車で横浜に行った
事がありました。横浜はあまり詳しくなかったので、走っている内に道に迷
ってしまいました。少し走っていると線路のある道に出たので「しめた!」
と思って線路に沿って走ってみたら、ちゃんと国鉄(今のJR)の駅のある所
に出たので、場所も何となく分かって無事帰る事ができました。線路という
のは道標(みちしるべ)にもなるのだなぁ…と感心したものです。
今や都電は1系統だけになってしまいましたが、私には身近にあった乗り
物としてとても思い出深いものです。