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#293.細川ビル その参

Posted by KINN Tailor on 29.2016 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 昭和40年代に入ると、溜池界隈の雰囲気も随分と変わりました。ちょうど
日本が高度経済成長期だった事もあるのでしょう。引っ越したばかりの頃は
まだ空き地が多く残っていましたので、休みの前にレンタカーを借りて来て、
その空き地に置いたりできましたが、気がつくとそんな空き地にビルが建っ
ている・・・という感じでどんどん開発が進み始めました。
 それと同時に、地下鉄などの公共交通機関が整備されてきた事や車の量が
増えた事などの理由で、便利だった都電も道を占領する"邪魔者"になってし
まい、その後数年で廃止になりました。

 昭和43年には日本で最初の高層ビル「霞が関ビル」が完成しました。36階
建てですが、当時は東京タワーの次に建った高層建築物として大変な人気で
した。
 展望台は連日超満員でした。細川ビルの友達が霞が関ビルの展望台に行く
のがわかっている時などは、ビルの屋上に上って展望台の友達に手を振った
りしたものです。
 細川ビルは(ビル側からすると)裏に首相官邸国会議事堂、横に霞が関
ビル
といった立地でしたから、今思うと凄い所に住んでいた・・・と言うか、
今だったら絶対に望めない所に住んでいたのだと思います。
 もう一つ、いかにも…という経験があります。ちょうどこの頃、日米安保
条約反対のデモ
が盛んに行われていて、細川ビルの前の「外堀通り」をヘル
メットをかぶった沢山の人が議事堂に向かって行進して行く様をよく部屋の
窓から見ていました。外堀通りは今では片側5車線もあり元々相当に広い道
ですが、その道一杯に広がった長い列が、掛け声と共に小走りに通り過ぎて
行くのです。どの位の人数だったのかわかりませんが、行進の間ビルが揺れ
ていた!
…のには驚きました。あの光景とビルが揺れていた感じは忘れられ
ません。

 細川ビルは、元々の契約が15年間は公団の物でその後は持ち主に返す事に
なっていましたので、私達は昭和46年には今の広尾に移る事にし、細川ビル
から引っ越しました。
 あれから45年経ちます。当時の写真は白黒の物が多く、カラーの写真も色
が褪せ始めていますが、溜池で過ごした沢山の思い出は、まるで昨日の事の
ように鮮やかに思い出されます。

〜45年振りに細川ビルに行ってきました〜
細川エントランス&廊下
◯写真左:エントランス  入口にあったタイル壁画はそのままでした。
◯写真右:廊下  廊下などもビックリする程昔のままでした。


細川屋上
◯写真左:霞が関ビル(矢印)
 周囲に高いビルが建ち、今ではやっと見える状態。
 国会議事堂はもう見えなくなっていました。
◯写真中:屋上
 隣のビルへの避難路はなくなっていましたが、子供達が乗り越えた扉だけ
 は残っていました。
◯写真右:
 屋上の片隅にまだ公団住宅だった頃の名残りの遊具が残っていました。


細川ビル**
細川ビルは今年で58年になります。現在は「溜池山王」と「虎ノ門」の2駅
が使える好立地な貸しオフィスビルとして未だに人気のようです。


#292.細川ビル その弐

Posted by KINN Tailor on 22.2016 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 私が「細川ビル」に引っ越した昭和33年頃は、交通機関と言えば都電が全
盛期で、細川ビルの目の前にも「溜池」の停留所があったので、よく利用し
ていました。

 都電は前と後ろに乗降口があり、まだワンマンではありませんでしたので、
乗車してから車掌さんにお金を払いました。乗車料は13円で(うどんやソバ
が35円位)、初めの内は乗り換え料金が掛かりませんでしたので、気軽に利
用できる"庶民の足"と言った感じでした。運転手さんは立って運転していて、
特に囲いなどがある訳ではありませんでした。

都電のイラスト**

 今回の話を書きながら色々思い出していたのですが…溜池という場所柄、
食料品を買うのに結構苦労していたように思います。八百屋さんが 5分位歩
いた所にありましたが、肉や魚を買うには桜田通りまで行かないと駄目だっ
たと思います。生活雑貨などは近くに特許庁があったので、そこの地下に入
っていた売店などを利用していたように思います。細川ビルの地下にもお店
があり、靴屋と薬屋と飲食店でした。靴屋さんだけちょっと不釣り合いな感
じもしますが、細川ビルを建てる時に土地を提供した人のお店だったと記憶
しています。
 飲食店の中で一番大きかったのがビアレストランでした。このレストラン
の御主人は第一次世界大戦時に青島(チンタオ)に居たドイツ軍人で、捕虜
として日本に送られて来たそうですが、戦後日本で過ごしている内に日本の
生活が気に入ってしまい、帰国せずに日本人の方と結婚してレストランを始
めた…という事でした。ご主人のお友達は皆、本場のハムやソーセージを作
ったりレストランを開いたりして成功していたようです。
 細川ビルができる時に新しいお店を出す決心をしたそうで、味が良いので
しょう…とても繁盛していました。休みの日の夕方など、ビルの1階をブラ
ブラしていると「美味しいから食べにいらっしゃいよ」と誘われたりしたの
ですが、当時は小さい子供が外食をするのが難しかった時代でもあり、1度
も行けなかったのが残念でなりません。

 それ以外で不便だった事と言うと…子供の遊び場でしょうか。一応屋上に
ブランコや滑り台、砂場がありましたが、滑り台は何故だかコンクリートで
できていて滑りませんでしたし、砂場も途中から蓋をされてしまいました。
休みの日などは、同じビルの子供達と一緒に日比谷公園まで行ったりしまし
たが、普段はもっぱら屋上で遊んでいたように思います。

 細川ビルの隣にも同じ高さのビルが建っていたのですが、屋上に非常時に
隣のビルに渡れる避難路がありました。これはごく簡単な作りのコンクリー
トの橋で、側面は金網でした。普段は行き来ができないように、金網の扉が
付いていて鍵が掛かっていました。
 ある日子供達がいつもより高揚した様子で帰って来て「隣に行ってきた!」
と言うので、よくよく話を聞いてみると、例の避難路の扉をよじ登って橋を
渡った
…と言うのです。避難路の周りには落下を防ぐような物は何もありま
せんから、一歩間違えたら・・・転落!です。更に、怖がる子供には「目を
つぶって乗り越えろ!」
と言っていたそうですから、大騒ぎになりました。
 とりあえず何事もなかったのでホッとしましたが、当時の子供の遊び場は
基本的に屋外でしたから、屋上が遊び場だとこんな事を思いついてしまうの
かも知れません。今思い出しても肝が冷える話です。

〈つづく〉

#291.細川ビル その壱

Posted by KINN Tailor on 15.2016 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 先日、また用事ができて勝鬨橋の先まで出掛けました。

 その日は荷物が多かったので車で行きました。車の時はいつも六本木通り
から溜池に出て、それから新橋へ向かうのですが、この日は数年前に虎ノ門
まで開通した2号線の事を思い出し、走ってみましました。
 印象としては…新大橋通りに入る手前に急カーブが多くて、私には以前の
道の方が合っているようでした。
 ご存じの方も多いと思いますが、この2号線と言うのは「マッカーサー通
り」
と呼ばれていて、かなり以前(終戦直後)、マッカーサー元帥が駐留軍
の司令官として東京に居た頃から計画があった道路です。
 私は昭和33年の末から約13年溜池に住んでいて、父がまだ健在で港区芝
店があり、そこまで歩いて通っていましたので、あの辺りはとても懐かしい
所なのです。
 ただ実際に通ってみると、マッカーサー通りを開通させる為にかなり住居
やビルが取り壊されてしまった訳ですから、懐かしいというよりは「ありゃ、
こんなになっちゃったんだ・・・」というのが正直な感想でした。

マッカーサー**

 私が住んでいたのは、溜池の交差点からすぐの所にある「細川ビル」です。
 このビルは日本住宅公団が初めて市街地住宅として東京の中心部に4軒作
ったマンションの一つで、当時で言う所謂「下駄履き住宅(下の方の階が店
舗や事務所で上の方が住居になっているビル)」でした。この細川ビルは、
地下~3階が事務所や店舗で、4階は公団に土地を提供した人達の住居、5階
から10階が公団住宅になっていました。
 私は大変運が良くて、「い-1番」が当たり、5階の1号室(511号室→なぜ
11から番号が始まっているかは謎)を借りる権利を得ました。
 公団としてはこの「511号室」が一番良い部屋…としていたのだと思うの
ですが、家内が「屋上に洗濯物を干しに行くのに遠い(エレベーターはあり
ましたが)のでもっと上の方がいい」と主張していましたが、私は通勤する
のに1階に近い方が便利でしたので、話し合って結局「511号室」を借りる事
になりました。
 実は後からわかった事なのですが、当時はビルに高さ制限があって(確か
30メートル)本当は8階までしかできないのに、公団が一寸無理をして10階
建て
にしたので6階から10階までは少し天井が低くなっていたのです。
 住み始めてから仲良くなった8階の人の家に遊びに行った時、押し入れの
上にある天袋が小さかったので、やはり私は5階で良かったと思いました。
 このマンションは当時の最新のシステムを備えている…というのが売りで、
エレベータがあり、各階にはディスポーザー(生ゴミ粉砕機)が付いており、
そして単身者用(部屋にお風呂がない)に屋上にシャワールームと洗濯機が
備え付けられたりしていましたが、今思えば"溜池"という場所柄、近くに銭
湯などありませんでしたし、洗濯物は屋上しか干せませんでしたからエレベ
ーターやシャワーなど設置せざるを得なかったのだと思います。
細川ビル**

 〈つづく〉

#282.勝鬨橋の話

Posted by KINN Tailor on 06.2016 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 先日、月島にお住まいのお客様の所へ伺う際に、久し振りに「勝鬨橋」を
渡りました。銀座まではたまに行く事がありますが、そこから先へ行く事は
この50年位ありませんでしたので、本当に久し振りな気持ちになりました。
 その時にふと「そう言えば、勝鬨橋は跳開橋だったんだなぁ」と、また昔
の事を思い出しました。

 若い方達はご存じないかと思いますが、勝鬨橋は昭和15年(1940年)に
築地と月島の間に掛けられた橋で、当時は船の往来がありましたので、橋の
中央が両側に跳ね上がる"跳開橋"として大変な話題になりました。
 私はちょうど10歳でしたが、完成した時にはラジオ(当時テレビはまだ
ありません)や新聞で大きく取り上げられました。
 その頃私は新橋駅の近くに住んでいて、築地はさ程遠い所ではありません
でしたので、橋が両側に開いて船が通るところを是非一度見たいものだ!と
思っていました。ただ、まだ一人で出掛られる年齢ではありませんでしたの
で、実際には観れず終いでした。
 それからかなり経った頃・・・たぶん27歳位だったと思いますが、用事が
あって築地まで行った時に偶然橋が開くところを見る事ができたのです。
 橋の中央が開き、そこをかなり背の高い大きな船が通過して行くのを見た
時は、感動しました。橋が開いているのを見られた事も感激でしたが、鉄道
マニアの私が最も興味を持っていた都電にまつわる"ある事"が解決したのに
も感激でした。

 当時は橋の上を人や車だけでなく、都電も通っていました。都電は上から
電気を摂っていますので、開く時にその電線がどうなるのか?…に大変興味
があったのです。
 構造としては、跳ね上がる箇所に特殊な金具が付いていて、そこで電線が
折れるようになっていました。実に巧くできているなぁ…と関心しましたが、
出掛ける時に橋の事をすっかり忘れていましたので、カメラも持っておらず、
折角のチャンスだったのに悔しい思いもしました。

 その後大きな船が通る事もなくなり、1970年以後は開閉しなくなりました
ので、今考えてみると、あの…たった一度の”大切な偶然” を写真に収める事
ができなかったことが残念でなりません。

 このブログを書くにあたって、勝鬨橋について少し調べてみました。
 私はこの名前の由来は、橋が跳ね上がったところが「バンザイ」をしてい
るみたいなので勝鬨橋(かちどきばし)と云うのだろう・・・と思っていた
のですが、全く違いました。
 事実は、日露戦争の勝利を記念して隅田川を渡る渡し船ができて、その名
を「勝鬨の渡し」とし、そこにできた橋なので「勝鬨橋」と名付けられたの
だそうです。
「橋がバンザイしている」というのは、当時10歳だった子供らしい発想かも
知れませんが、それを一度も疑った事がなく、こんな歴史的な意味があった
事こそが私にって大変意外な事でした。

勝鬨橋**

#259.国民の休日

Posted by KINN Tailor on 14.2015 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 毎年、翌年のカレンダーを用意するのを忘れてしまい、年末に慌てて買い
に行っていましたが、今年に限っては12月に入るとすぐにカレンダーと手帳
を注文しました。
 私は日記を付けていませんが、ここ数年は予定表に先の予定だけではく、
その日にあった事などを簡単にメモするようにしています。昔は記憶力が今
より遥かに優れていたので、いつ何があったかをすぐに思い出せましたが、
最近は、2年以上前の事になると記憶がゴチャゴチャになりがちで、それが
いつ起きたのか、がわからない事が多くなってしまいました。
 そこで予定表を活用して「簡易日記」とする事にしたのです。これが意外
と使えて、本格的な日記にはなかなか書かない?ような些細な事をメモして
あるので、「あぁ、これはこの時に頼んだのだった・・・」とか「この前の
旅行はこの時間の電車に乗って行ったのか・・・」などなど、随分とお役立
ちなメモ
となっています。

 先週、頼んでいたカレンダーが届いて何気なくパラパラと捲って見ていた
のですが、私の子供の頃に比べて祝日が多いのに気付きました。と言うのも、
私の店は祝日は基本的には休みませんので、いつが祝日だかなかなか覚えら
れないのです。
 一寸調べてみたところ、昭和23年は9月23日秋分の日、11月3日文化の日、
11月23日勤労感謝の日の3日間だけだったようです(元日はお休みだったと
思いますが祝日という事ではなかったようです)。翌年の昭和24年になって
から元日や春分の日、天皇誕生日などが加わって9日間になっていました。
 私の子供時代の事を思い出してみると、学校のお休み(夏休みなど)以外
は特に休みがなかったような気がします。

 日本人はよく働くので、祝日が増えるのは良い事だと思うのですが、何年
か前に制定された「ハッピーマンデー」なるものは、何が良いのかよくわか
りません。
 連休が増えた方が良い…という考えかも知れませんが、そもそもその日が
祝日になった意味がわからなくなってしまう気がしますし、「今週は連休」
という印象が先に立ってい、何の日でお休みになるのか…すら意識されなく
なってしまうのではないでしょうか。

 祝日の話を娘としていた時に、こんな話になりました。
 これは東京にお住まいの方で多分40代以上の方しかわからないと思うお話
なのですが、かつては「東京都民の日」(10月1日)というのがありました
(実は今もあるようです)。当時は、都民の日に付ける「カッパバッジ」
いうのがあって、うちの子供達も買って付けていました。その日は学校(確
か小・中・高校)がお休みになり、このバッジを付けて街に行くと、いくつ
かの施設が無料で利用できたりしたそうです。今は学校がお休みになったり
バッジを販売したりしていないと思うのですが、当時の子供達にすると何と
なく"子供達だけの特別なお休み"として楽しみだったらしいです。
 私も何となくこのバッジのことは覚えています。親戚が学校関係に勤めて
いましたので子供のためにまとめて買ってもらったような記憶があります。

カッパバッチ
左側の2つ:黄桜のCMでも有名な清水崑氏デザイン
右側の6つ:小島功氏デザイン 最後の方は5つの色違いバッチもあった

いずれにせよ…祝日になったのには由来がある訳ですから、「今日は何の日
でお休み」
というのを忘れずにいたいですね。
  

プロフィール

KINN Tailor

Author:KINN Tailor
服部晋(はっとり すすむ)
金洋服店 2代目店主
10代半ばから父・金生に師事し、洋服作りを修業。
伝統的な裁断・縫製技術を磨きながら日々研究を重ね「斜面裁断」や「プルダウン」など独自の技法を開発。
近年では後進指導のための私塾やセミナーなどを開催する一方で、技術継承のためにDVD制作にも積極的に取り組んでいる。

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