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#414.御殿場での冒険

Posted by KINN Tailor on 27.2020 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 今回も御殿場時代の話をしたいと思います。

 御殿場の家は、駅から箱根方面へ30分位歩いた所にありました。
 当時はコンビニエンス・ストアなどは勿論なく、買い物ができるお店は駅の
周辺に纏まっていました。
 ですから、何か必要な物があると自転車で買い物に行くのが常でした。
 私が11~12歳の頃、御殿場には疎開をしていた訳ですが、駅と家の間にある
牛乳屋さんの子供と仲良くなりました。
 いつも近所で遊んでいましたが、だんだん親しくなると「ちょっと遠くに
ってみようか・・」という話になり、自転車で出掛ける事になりました。

  自転車**

    二人共、荷台の付いた普通の自転車でした

 御殿場駅は、昔の東海道本線の東京〜沼津間で一番高い所(海抜500m)
にありましたし、家があった場所もほぼ同じ高さでしたので、どの方向に行
っても下り坂になる訳です。
 駅から東側は「旧御殿場」と呼ばれていて、学校などがありましたので良
く行っていましたが、西側は特に名のある建物がなかったので、あまり行っ
た事もなく、私達にとっては"未知の世界"でした。
 二人で相談をして「じゃあ西側を探検しに出かけよう!」という事になり、
ある日お昼ご飯を済ませて、午後1時頃に出発しました。

 御殿場は杉や檜の林が沢山あって、「一日中陽が当たらない道」と言われ
ている所もありましたので、子供の私達にとっては正に"冒険に行く!"…と
言った気分でした。
 駅を超えてどんどん走って行きます。下り坂ですから走るのは楽で、田や
畑や小さな川など田舎の景色を満喫しながら進んでいきました。
 どの位走ったでしょうか…時間にして1時間半以上は走ったと思います。
 どこまで走って行っても田や畑しかないので、だんだん風景に飽きてきた
事もあり、「そろそろ止まって休むか・・」という事になりました。
 止まってみると、走る事に夢中になっていて何もない所に来てしまった
・・という気分になり、そうなると(子供ですから)ちょっと不安になって、
どちら共なく、「帰ろう…」という事になりました。
 来た道を戻れば良いのはわかっていたのですが、ちょうど歩いてきた人に
「あっち(戻る方向)に行くと何処に出ますか?」と聞くと、「ここをずっと
行くと“御殿場”に行きますよ」と言われました。
 その言葉を聞いて、「しまった!」と思いました。つまり自分達は走る事
に夢中
になって御殿場の外まで来てしまったのです。来た道をハッキリ覚えて
いる訳でもなく、更に帰りは延々上り坂になる訳でから「これはまずい・・」
と思いました。
 帰り方を相談しましたが、二人共来た道を確実に戻る自信はなく、とりあえ
ず"鉄道の線路"を探す事にしました。
 この判断が我ながら良かったと思います。線路沿いの道の方が、下って来
た道よりは多少緩やかな坂になっていましたし、道に迷う事もありません。
 それでも上り坂には違いありませんので、二人共必死で自転車を漕ぎ、疲
れると自転車から降りて押して歩いたりしました。
 その内に列車が1本通り過ぎたのを見て、「これで無事に帰れる」と思って
ホッとしました。

 家に着いたのは午後6時過ぎでしたから、帰りは3時間以上かかった事にな
ります。線路沿いを走らず、来たままの山道を戻っていたら一体どうなってい
たか?…と思いますし、タイヤもパンクしなくて本当に良かったと思います。
 行きに観た景色は良かったですし、爽快で楽しかったのですが、その後は
二人で「遠出をしよう」…という話は二度と出ませんでした。
 その後東京に戻ってからはあまり自転車にも乗らなくなり、これといった
"冒険"もしませんでしたので、私にとっては貴重な経験でした。

#413.田舎での野菜作り

Posted by KINN Tailor on 13.2020 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 前回、獅子唐作りの話をしましたが、"野菜つながり"で、ふと子供の頃に
御殿場野菜作りをした事を思い出しました。
 このブログをずっと読んで頂いている方からは、「また御殿場か…」と言
われそうですが、夏によく行っていたので、どうもこの時期になると御殿場
での事が思い出されます。

 御殿場の話を始めて読まれる方もいらっしゃると思いますので、ちょっと
だけ説明します。
 子供の頃、夏になると一家でよく遊びに行ったのが御殿場です。最初は
地元の農家の家(隠居した時に住むように建てた家だったそうです)を借り
ていましたが、父は御殿場をとても気に入ったようで、その内に"家を建て
よう!
"…という事になりました。
 父の知り合いのN氏は、御殿場に1万坪以上の土地を所有していましたが、
最後に買い足した土地がその方にとっての「鬼門」に当たる事がわかった為、
その土地を父が買う事になりました。
 家が建ったのは昭和11年でした。庭に丸い大小の芝生を植えた所があり、
その周りを8の字に自転車で走ったりしていました。

御殿場絵図**

 御殿場では色々な事をしました。私は工作好きでしたので、飛行機や船を
作るのに夢中になっていた時期もあります。もう一方で、山羊を飼って
世話をしたりもしました。
 そんな事をしている内に戦争が始まり、御殿場は避暑地ではなく、疎開先
になりました。
 昭和16年頃には食糧難も深刻になって来ましたので、芝生が植えてあった
所の小さい方を使って野菜を作る事になりました。幸い近所には親しくして
いる農家が沢山ありましたので、土の耕し方から野菜の育て方まで、丁寧に
教えて貰えました。
 最初は小さな芝生の方を畑にして、キュウリやナスを育てました。その内
に大きな芝生の方も畑にして、トウモロコシやさつまいもを育てました。
 「堆肥(たいひ)」も自分で作りました。教えてくれたのが農家の人です
から、堆肥作りなど"当たり前"という感じでした。
 落ち葉に生ゴミを混ぜて重ねて行くのですが、「鶏糞」を混ぜると良いと
聞いたので、糞を集め易くする為に鶏小屋も作り直しました。飼っていた鶏
が野犬に狙われそうで気になっていましたので、丁度良いタイミングでした。
 地面から1m位の所を鶏小屋の床にしました。床は竹を多少隙間ができる
ように並べて、糞が下に落ちるようにしました。これですと、エサをやる時
もしゃがまなくて済みますし、思った以上に使い勝手が良かったです。
 鶏糞を加えた事でとても良い堆肥ができ、そのお陰?か…野菜も美味しく
育ちました。

 御殿場は天候に恵まれているか?…と聞かれると必ずしもそうではなく、
どちらかと言えば湿度が高く、夏はがやたらに鳴っている印象です。
 ですから、(割と簡単な野菜だったのだとは思いますが…)あまり失敗も
せず、よく沢山収穫できたものだなぁ…と思います。
 今でも採れたてのキュウリやナスで作った「ぬか漬け」の美味しさは忘れ
られません。自分で作った物は、どんな物でも格別です。

#366.土筆ヶ岡養生園 最終話

Posted by KINN Tailor on 24.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 養生園を退院した後は、週に1回、主治医の先生の診察日に園へ通う事に
なりました。
 体調に変化はありませんでしたので、毎回同じような検査をするだけでし
たが、入院中に知り合った患者さんや看護婦さん達とまた話ができるのが、
とても楽しみでした。長く入院していましたから、退院できた喜びよりも、
知り合った人達と別れる方が辛い気持ちもあり、再会するたびに懐かしく思
いました。

 一番気掛かりだったのは、退院する時に置いて来た犬の事でした。
 戦時中という事もあり、犬を家に連れて帰る事はできなかったので、まだ
入院している患者さん達に託す形になりましたが、私の顔を見ると飛んで
来て尻尾を振りながら嬉しそう(?)にしてくれるので、犬はこんなに可愛
いものなのだな(それまで犬を飼った事はなかった)…と思ったものです。

 その後数か月は毎月園へ通いましたが、有難い事に体調は良かったため、
徐々に回数も減っていきました。その内に、療養のために御殿場へ行く事と
なり、園の人達とは手紙で状況を報告し合うようになりました。その文通も、
戦争が激しくなったために止めざるを得ず、そのまま連絡が取れなくなって
しまいました。
 75年以上も前の事ですが、ふと「戦争がなかったら、あの人達と連絡を
取り続けていたか?」とか「戦時中じゃなかったら、あの犬はどうしただ
ろう?」…などと思う事があります。
 今回、このブログを書いた事で、園内の様子や看護婦さんのあだ名など
色々と思い出す事ができて、ちょっと楽しい思いをしました。

 余談になりますが・・・
 最初にも書きましたが、私が入院する事になったきっかけは、中学の体育
の授業・・つまり教練ができなかったため、担任から「暫く入院しなさい」
と言われた訳です。その際の扱いは「休学」でした。
 ところが暫くすると学校から親が呼び出され、「戻る時には休学だった
条件で戻すので、とりあえず扱いを一旦"退学"にする」と言われたのです。
 本当の理由はわかりませんが、私が思うに…当時は中学生も立派な動員力
だった訳で、学校側としては、その"学徒動員"として現在何名在籍している
かを国(軍?)に報告しなければならず、私のようにいつ戻れるかハッキリ
しない者は数に入れたくなかった…のではないでしょうか。。。

 今とは違い、学校側から言われた事に反論できるような時代ではなかった
ので、黙って受け入れざるを得ませんでした。
 日本という国では…戦後73年経った今でも、このような妙な数合わせ的な
隠ぺい
が、残念ながら無くなっていない気がします。

#365.土筆ヶ岡養生園 その参

Posted by KINN Tailor on 10.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 入院も長くなってくると、患者同士が仲良くなり、色々と話をする機会も
多くなりました。
 患者が居る棟は全部で3棟ありました。1棟にだいたい10名位が入院して
いて、それぞれの棟の中でコミュニケーションを取っている…という感じで
した。

 ある日、隣の棟で俳句好きな人が冊子を作っている…という事を聞き、私
が居た棟でも作る事になりました。当時は俳句を嗜む人が多く、私の棟にも
俳句の会をやっていた人が居て、その人が冊子に「踏青(とうせい)」とい
う名を付けてくれました。春の青草を踏んで遊ぶ・・という意味だそうです。
 俳句の会のお知らせも回って来て、「俳句の会に来ると、ハイク退院でき
ます
」・・・などと書いてありました。
 私は子供でしたから俳句を詠む事はできませんでしたが、会には時々遊び
に行ったものです。

 そう言えば、看護婦さん達を"あだ名"で呼んでいた事も思い出しました。
私の棟の担当看護婦さんは4名居て、その看護婦さん達に皆であだ名を付け
ていたのです。
 一番古株の主任さん、はそのまま「主任さん」「赤い顔した」倉沢さん、
「背高ノッポ」の木村さん、そして「チクリのおばさん」中村さん・・今の
ように捻ったあだ名ではなく、殆ど"そのまんま"です。
 「チクリのおばさん」中村さんについては、本人は「注射ばかりしている
看護婦さん」という意味で皆が呼んでいると思っていたようですが、実は
注射が一番下手で痛かったので、そのあだ名が付いたのでした。

 当時まだテレビはなく、楽しみと言えばラジオ放送でした。私が持って行
ったラジオが一番良く聴こえたらしく、向かいの部屋にいる看護婦さん達も、
それを聴いて話題にしていました。
 ある日、「ナイチンゲール賞の発表」というニュースをやっていました。
これは、功績が認められた看護師に与えられる名誉ある賞ですが、何と!
うちの主任さん(紅林リンさん)が受賞した…というニュースがラジオから
流れて来たのです。壁は薄く、仕切りは襖ですから、どの部屋にいた人にも
このニュースが届き、「服部さん、今受賞者はクレバヤシさんって言ったわ
よね!…うちの主任さんよね!」と言いながら私の病室に集まって来て、大
騒ぎになりました。
 この時、当の主任さんは外出中でしたが、私も主任さんの事がとても好き
だったので、夕方戻られた時にすぐにお祝いに行きました。この事が入院中
で一番嬉しかった出来事
だったかも知れません。

私の棟**

 私は血管が見えにくい体質で、毎朝打つ静脈注射がとても辛く(チクリの
おばさん
が打っていたせいか?)、その時だけは暗い気持ちになっていまし
たが、それ以外の時間は、他の患者さん達と仲良く、楽しく?、穏やかに過
ごしていました。 
 他にも・・戦時中でしたから防空演習などがあり、うちの棟からは比較的
元気だった私が代表として参加したりしました。

 そして入院してから9か月~10か月位たった頃でしょうか・・。病状が悪化
する様子は見えなかったため退院をする事になりました

〈つづく〉

#364.土筆ヶ岡養生園 その弐

Posted by KINN Tailor on 27.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 病院の入り口には見上げる程の立派な門がありました。
 このお屋敷が一体どなたの物か調べた訳ではありませんが、病院の人達が
「伊達屋敷」と呼んでいましたから、「伊達藩」のお屋敷だったのだと思い
ます。

 門を入りしばらく歩くと、間口の広い玄関がありました。そこで土足を脱
ぎスリッパに履き替えます。
 長い廊下の片側には診療室や看護婦さんの詰め所があり、反対側には大き
な襖が並んでいました。襖の部屋は病室で、畳式の日本間に木のベッド…と
いうスタイルでした。敷地は結構広く、私の記憶では全部で建物が4棟あり、
他に庭やテニスコートがありました。

 この養生所は明治の終わり頃にできたそうですが、その頃は「水道」
なかったので、創設者の北里先生が敷地の端に盛り土をして、そこにタンク
を据えて「自家水道」を作られたそうです。
 私が入院した時には勿論水道はありましたので、その盛り土をした小山だ
けが残っていて「水道山」と呼ばれ、患者さんの散歩コースの一つになって
いました。

 前回も書きましたが、当時「結核」に効果がある薬はありませんでしたの
で、まずは安静にして自然に治るのを待つ・・・という治療法でした。
 病院での日課は、検査を受けて必要な注射を打ってもらう・・というもの
で、その他の時間はベッドでおとなしく過ごさなければならなかったのです
が、私はまだ子供でしたし、体調も良かった(多分感染はしていたが、発病
はしていなかった)ので、医者の言う事を聞かずに遊び回っていました。
 病院に時々やってくる野良犬を手懐けて、飼い犬のように連れ歩いたり、
得意の模型飛行機を作って、テニスコートで飛ばしたりしていました。
 この模型飛行機は、いつの間にかファンがついて、飛ばすのを楽しみにし
てくれる患者さんが数人いましたので、私も張り合いが出て、何機も作って
飛ばしました。

伊達屋敷**

 病院で野良犬を飼った…など、今考えると「不衛生極まりない!」となる
のでしょうが、当時は特に問題になりませんでした。"入院中の子供が野良犬
を可愛がっていたら懐いて、飼う事になったのを周りが微笑ましく見守って
いた・・・”と言うような、ごく自然な流れでした。
 それよりも、子供の私でも「おかしいのでは?」と思ったのが、近所の子
供たち(健康な人達)が、養生園に遊びに来ていた事です。
 その親御さんも、養生園にどういった患者が居るかはわかっていたと思う
のですが、「感染」に対する認識が今とは全く違ったのかも知れません。

〈つづく〉
  

プロフィール

KINN Tailor

Author:KINN Tailor
服部晋(はっとり すすむ)
金洋服店 2代目店主
10代半ばから父・金生に師事し、洋服作りを修業。
伝統的な裁断・縫製技術を磨きながら日々研究を重ね「斜面裁断」や「プルダウン」など独自の技法を開発。
近年では後進指導のための私塾やセミナーなどを開催する一方で、技術継承のためにDVD制作にも積極的に取り組んでいる。

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