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#363.土筆ヶ岡養生園の話 その壱

Posted by KINN Tailor on 13.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 今年は記録的な猛暑続きで、皆さん体調管理に気を使われている事と思い
ます。私はできるだけ外出をせず、涼しい部屋に居るようにしています。
お陰様で今のところ熱中症や夏バテといった事にもならず、どうにか無事に
過ごせています。
 私はよく人から「年齢の割にお元気ですね…」と言われます。元々、丈夫
な生まれつきだったのだと思いますが、そんな私も子供の頃には長く入院
ていた時期がありました。
 今回はその頃の話をしたいと思います。 

 私が小学校6年の時、学校の検診で「呼吸器に多少の不具合があるので、
体育の時間にあまり無理をしないように…」と言われました。ただ、胸が苦
しかったり、咳が出るような目立った症状がある訳ではなかったので、授業
は普通に受けていました。
 母は検診結果が心配だったようで、「もう少し詳しく診て頂きましょう」
と言って、知り合いの内科と呼吸器科の先生に私の検査をお願いしました。
 検査の結果は、「特に重い症状ではないから、普通の生活をして、薬を少
し飲むように…」というものでした。当時は呼吸器に効果がある薬はなかっ
たので、「ヒ素」を処方してもらいました。
 「ヒ素」と言うと、ちょっと驚かれるかも知れませんね。一種の毒薬では
ありますが、当時は呼吸器の病気に薬として用いられていたのです。

 その後は特に変わりなく過ごしていたのですが、中学校に入ってからは、
体育の授業に教練(・・・戦時中のため、中学からは軍隊の厳しい訓練が
組み込まれました)があったため、保健の先生から「しばらく学校を休んで
養生をしなさい」
と言われ入院することになりました。
 今思えば、体育の授業だけ見学すれば良かったのですが、中学生の教練と
言っても、陸軍から軍人が来て教えていましたし、銃を持っての訓練もあり
ました。そして、いわゆる軍国主義だったのでしょう…そういった教練を受
けられない人は、「養生して早く動けるように(お国のために役に立つ身体
になりなさい)」…という考えだったのだと思います。

 当時、呼吸器専門の病院はあまりありませんでしたが、運良く父のお客様
北里研究所の先生がいらして、白金にできた日本初の呼吸器専門の施療院
「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園・北里研究所付属病院」をご紹介頂き、
入院することになりました。
 ここで少し説明しますと…「呼吸器の病気」という表現をして来ましたが、
それは今で言う「結核」です。戦後は「結核という病名」をハッキリ言うよ
うになりましたが、この当時はまだ特効薬もなく「肺の病気は厄介」という
印象が強く、忌み嫌われていたため『呼吸器の病気』と言っていた訳です。

 さて私にとっては初めての入院となった訳ですが、初日に病院の入り口に
行ってビックリしました。
 それは「・・病院」と札は掛かっていましたが、昔の「武家屋敷」だった
のです。

〈つづく〉

#362.御殿場の話 番外編

Posted by KINN Tailor on 30.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 夏になると、子供の頃御殿場へ遊びに行った事を思い出します。
 ブログでもその頃の懐かしい話を何回かお話ししましたが、「いつ頃から
書いたか?」と思い、調べてみると…2012年9月に書いていたのがわかりま
した。自分としては、2~3年前の夏頃だったような気がしていましたので、
本当に時間が経つのは早いものです。

 さて、今回もちょっとその頃の話をしてみたいと思います。
 当時御殿場へ行くには、東京から電車に乗って行く訳です。以前のブログ
を読まれた方は「アレ、蒸気機関車じゃあないの?」と思われるかも知れま
せん(散々その話題も書きましたので…)。
 ちょっと説明しますと、その頃(1940年頃)は電車蒸気機関車の両方が
走っていました。全体としては、まだ蒸気機関車の方が多かったと思います。
東海道本線は国府津駅で"御殿場方面"と"沼津方面"とに分かれます。そして、
御殿場経由で沼津へ向かう御殿場線が蒸気機関車、熱海経由で沼津へ向かう
東海道本線は電車という風に分かれていたのです。
御殿場線**
 沼津方面に行くのが電車というのは理由があります。1934年に丹那(た
んな)トンネルが開通したのですが、蒸気機関車の煙を長いトンネル内に
排出
する訳にはいかない(丹那トンネルは7,804mもありますので)…と
いう事で、電車を走らせていた訳です。
 一方、分かれた御殿場線はどうかと言うと、こちらは蒸気機関車で伊豆の
山々を越えて
いかなければなりません。この山越えがなかなかの大仕事だ
ったのです。
 坂を登るためには、列車を引っ張る機関車1台では難しく、国府津駅で後
ろから押す補助の機関車を連結させていました。そして無事に山を越えると、
前の機関車の運転手が合図の汽笛を「ポ~、ポ、ポ」と鳴らします。すると
後ろの運転手が同じように汽笛を鳴らして、それに応えていました。鉄道好
きの私は、この汽笛の合図を聞くのが楽しみでした。 
 私の家は駅からかなり離れていましたが、よく聞こえましたので、空気が
澄んでいたのでしょう。
 連結された機関車は御殿場で切り離されますので、駅には何台もの機関車
が止まっていました。それを良く見に行ったりしたのですが、たまに燃料の
石炭
が駅の裏の道に転がっていたりしました。好奇心からか、拾って帰った
事があります。そして、さっそく実検!…という事で、風呂焚きに使ってみ
ました。御殿場の家は、いわゆる五右衛門風呂で、釜の下で薪を燃やす方式
でしたが、石炭を燃やすと!…さすがに火力が強く、あっという間にお風呂
が沸きました。
 当時は石炭などとても高価でしたから、普段から風呂焚きに使う事はでき
ませんでしたし、この石炭も考えれば旧国鉄のですから、今でしたらお咎め
があるのかも知れません。80年近く前の事ですので時効という事で、お許し
頂きたいと思います。

** 以前の御殿場のブログをご覧ではない方は、ぜひ2012年9月~10月
   #95~#99、2017年6月 #333,334も併せてお読み下さい **

#361.電話番号の話

Posted by KINN Tailor on 09.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 前回、電話線の話をしましたので、今回は電話の懐かしい話をしたいと
思います。

 電話が一般的に普及し始めたのは、戦後の事・・だそうです。私が最初
に自分で電話を掛けた記憶は10歳位で御殿場に居た時ですから、戦時中
いう事になります。私の家にはまだ電話はなく、お隣のお宅にあったので、
時々お借りしました。
 当時の電話機の形と言えば・・よく昭和初期の頃を描いた映画などで見
掛けるタイプの物でした。
昔の電話器
 掛け方は…まず受話器を外して右側のハンドルをぐるぐる回します。(箱
の中には発電機が入っていたそうです)すると、電話局の交換手が出きて
「何番にお繋ぎしましょうか?」と聞いて来ますので、送話器に向かって、
相手方の番号を言う
と、暫くして電話が繋がります。
 その頃は加入者が3桁あるかないか位でしたから(局番はまだありません
でした)、例えば「51番お願いします」という風に言う訳です。或いは「〇×
さんお願いします」と、個人名を伝えても繋いで貰えました。御殿場という
場所の問題もあったと思いますが加入者は少なかったのです。
 その後東京に戻った頃は、電話機はいわゆる自動電話になっていました。
電話器その物にダイヤルが付いていて、確かもう局番もありました
(東京都内のみ)。その時の家の番号は、「43-1807」でした。43というの
は、家があった芝局の局番です。
 東京以外に掛ける時は、その地方の電話局に掛けて交換手に番号を伝える
方法でした。つまり、まだ市外局番がなかった訳です。…かなり不便でした。
 まだまだ電報の方が盛んに使われていた時代で、電話があっても「重要な
事は電報で」
という風潮でした。少し前迄の「重要な事はメールでなく電話
で」の風潮と似ています。ところが今や「重要な事こそメールで!」の風潮
になってしまいました。…こうなるとついて行けません。。。

 ところで、こんなTVコマーシャルを知っていますか?
カステラ1番
 かなり有名な「文明堂」のコマーシャルです。
 この歌詞の「♪カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂!」の、
「電話は2番」の所の意味を知っていましたか?
 この歌詞の通り・・文明堂の電話番号は「2番」だったという事なのです。
市外局番(東京23区なら03)は1960~62年に使われ始めていましたから、
既に電話番号は市外局番を抜いても7桁になっていました。現在60歳位の方
でも、電話番号が1桁や2桁の時代があったという事は想像し難いのでは
ないでしょうか?
 私くらいの年齢ですと、あのコマーシャルを聞いた時に「2番=電話番号」
とピンときて「随分早くに電話番号を取ったものだな」と思ったものです。

 今回の件で文明堂のコマーシャルの事を調べていたら、あのラインダンス
をしている ぬいぐるみ
「クマ」ではなく「猫」をモチーフに作られていた
…という事を知りました。
 最初に見た時から「クマ」だと思い込んでいました(そう思っていらした
方も多いのでは?)ので、それについては「このクマはおかしい」などとは、
露ほども思いませんでした。。。

#350.地下鉄 銀座線の話

Posted by KINN Tailor on 29.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 今日は懐かしい話を思い出したので、そのお話を・・・。

 東京に地下鉄ができて昨年末(2017年12月)で90周年だったそうで、年が
明けても様々なイベントが開催されているようです。
 昭和の年号で言うと今年は昭和93年ですから、地下鉄は正に昭和と共に
走ってきた訳です。まず初めに上野~浅草間が1927年に開通しました。東京
地下鉄道株式会社としては、新橋~浅草間の予定だったそうで、その7年後
の1934年にその区間が開通し、完成となりました。

 その頃私は、新橋から虎ノ門の方へ少し歩いて行った所に住んでいました
ので、銀座とか日本橋のデパートへ行くのに地下鉄を利用しました(まだ5歳
位ですからこの記憶はボンヤリしています)。
 そして私が小学校へ通うようになってから、東京高速鉄道株式会社がもう
1本の新しい地下鉄を渋谷~新橋間に走らせました(1939年)。
 この地下鉄ができた時に一番話題になったのが、渋谷駅が地上3階だ
という事でした。皆さんは、銀座線の渋谷駅は3階にあるのが自然の事と思
ってらっしゃるでしょうが、当時としては「地下を走る地下鉄が3階から出発
する」という事がとても不思議で、渋谷駅を発車すると乗客から「ワー、
高い!」
と歓声が上がったりしたものです。
 現在、銀座線は渋谷~浅草で1本の路線ですが、当時は会社が違いました
ので別々に運営されていた
のです。ですから乗り換えも不便で、子供の私は
「会社が違うのはわかるけど、どうして早く相談して路線を繋げないのかなぁ」
と不思議に思っていました。当時の新橋駅は、同じ方向にも関わらず乗り換え
るのに1階分上ったり降りたり
しなければなりませんでした。
銀座線1**

 その地下鉄に乗った印象ですが…とにかく音がうるさかったです。人と喋
るなんて、とてもとても・・・。それからすると今の地下鉄は本当に静かです。
そして、車内の電気がチョコチョコ消えたりしていました。送電線の接続が、
今とは違うのだそうです。
 感激した事もありました。扉が自動だという事でした。当時、バスは車掌
さんがドアの開け閉めをしていましたし、列車は自分でドアを開けていまし
たので、"自動ドア"というのは画期的でした。
 先日、テレビで地下鉄開通90年を話題にしていた時に「当時の切符をお見
せしたいと思っていましたが、なかなか見つからないんですよ」…と出演者
の方が言っていましたが、もし開通当時の事を言っているのであれば、この
方は少々不勉強だと思いました。
 当初は切符はなく、改札の機械に小銭を入れるとレバーが開いて電車に
乗れるようになっていたのです。
銀座線2**
 私は、この自動でレバーが上がる改札を「なかなか良くできているなぁ」
と思い、気に入っていました。しかし、その後料金が一律でなくなった事が
理由なのか、切符になっていまい、この改札も姿を消すこととなります。

 あれから約80年。技術は進歩するものですが、まさか改札に磁気カード
をかざすだけ
で電車に乗れる時代が来るとは、考えてもみませんでした。

#335.望遠鏡の話 その参

Posted by KINN Tailor on 17.2017 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 買った望遠鏡キットの説明書には次のような事が書かれていました。
①適当な板の上に丸いガラスを1枚固定させる。
②その板を、腰の高さ位の台に乗せる(もしあれば、樽のような丸い台が
 良い)。
③ガラスの上に研磨剤を振りかけ、そこに水をかけて、もう1枚のガラスで
 磨く。
④ガラスを磨きながら、自分も台の周りをゆっくり回る。

 手頃な台を探すために物置の中を見てみると、樽はありませんでしたが、
丁度良い高さの台がありましたので、それを使う事にしました。
 そこにガラスを乗せて磨いていくのですが、その方法は…上のガラスを
上下に動かしながら更にガラスを一方向へ回し、自分も台のまわりを回る

・・というものでした。
 頭では理解できましたが、実際にやってみようとしてもなかなか体が動き
ません。まずガラスを上下に動かすのが簡単にはできませんでした。更に
上下に動かしながらガラスを回すのも思うようには行きませんでした。
 最初は、ガラスを上下に動かして自分も台のまわりを回れば、自動的に
ガラスも回るような気がしましたが、説明書によると、それでは駄目だ…と
いう事でした。
 ガラスを上下に動かしながら更に回して、そして自分も台の周りを回らな
くてはならない
のです。
ガラス磨き

 最初はごくゆっくり、ぎこちない動作でガラスを磨き始めました。
 1日に2~3時間は磨いたでしょうか…だんだん慣れて来て動きがスムーズ
になっていき、1週間位磨いている内に上のガラスが凹んで来ました。
 そこで、ガラスをよく洗ってから電灯の光を当て、反射した光を鏡に当て
てみました。
 すると光がスーッ…と小さな輪になったので、何か苦労が報われたような
気がして嬉しくなりました。
 そこで、さらに2~3日掛けて丁寧に磨きをかけ、表面がツルツルして来た
ところでガラスは良しとしました。
 次に木の板で枠を作り、片側に反射鏡を取り付け、それを受ける平面鏡
覗いて見る所に接眼レンズを付けて…どうやら完成しました。

手作りの反射望遠鏡

 夜になって星を見てみると、とても綺麗に見えたのでとても感激しました。
ところが次の日の昼間に景色を見てみると、何となく景色が歪んでボンヤリ
して見えたのでがっかりしました。やはり素人の仕事ですから仕方がない事
なのかも知れません。

 当時の私の性格からすると、もっともっと良く見える望遠鏡作りに取り組
んでいきそうなものですが、そうしませんでした。
 模型の飛行機や船を作るのが好きだったのは、それができた後に遊べるの
が楽しかったのと、自分で模型の設計ができたところが、熱中できた点だと
思います。
 結局、私の望遠鏡作りはこの1台で終わってしまいましたが、今になって
みると、もう一度ちゃんと作ってみたいような気がしています。
  

プロフィール

KINN Tailor

Author:KINN Tailor
服部晋(はっとり すすむ)
金洋服店 2代目店主
10代半ばから父・金生に師事し、洋服作りを修業。
伝統的な裁断・縫製技術を磨きながら日々研究を重ね「斜面裁断」や「プルダウン」など独自の技法を開発。
近年では後進指導のための私塾やセミナーなどを開催する一方で、技術継承のためにDVD制作にも積極的に取り組んでいる。

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