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#366.土筆ヶ岡養生園 最終話

Posted by KINN Tailor on 24.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 養生園を退院した後は、週に1回、主治医の先生の診察日に園へ通う事に
なりました。
 体調に変化はありませんでしたので、毎回同じような検査をするだけでし
たが、入院中に知り合った患者さんや看護婦さん達とまた話ができるのが、
とても楽しみでした。長く入院していましたから、退院できた喜びよりも、
知り合った人達と別れる方が辛い気持ちもあり、再会するたびに懐かしく思
いました。

 一番気掛かりだったのは、退院する時に置いて来た犬の事でした。
 戦時中という事もあり、犬を家に連れて帰る事はできなかったので、まだ
入院している患者さん達に託す形になりましたが、私の顔を見ると飛んで
来て尻尾を振りながら嬉しそう(?)にしてくれるので、犬はこんなに可愛
いものなのだな(それまで犬を飼った事はなかった)…と思ったものです。

 その後数か月は毎月園へ通いましたが、有難い事に体調は良かったため、
徐々に回数も減っていきました。その内に、療養のために御殿場へ行く事と
なり、園の人達とは手紙で状況を報告し合うようになりました。その文通も、
戦争が激しくなったために止めざるを得ず、そのまま連絡が取れなくなって
しまいました。
 75年以上も前の事ですが、ふと「戦争がなかったら、あの人達と連絡を
取り続けていたか?」とか「戦時中じゃなかったら、あの犬はどうしただ
ろう?」…などと思う事があります。
 今回、このブログを書いた事で、園内の様子や看護婦さんのあだ名など
色々と思い出す事ができて、ちょっと楽しい思いをしました。

 余談になりますが・・・
 最初にも書きましたが、私が入院する事になったきっかけは、中学の体育
の授業・・つまり教練ができなかったため、担任から「暫く入院しなさい」
と言われた訳です。その際の扱いは「休学」でした。
 ところが暫くすると学校から親が呼び出され、「戻る時には休学だった
条件で戻すので、とりあえず扱いを一旦"退学"にする」と言われたのです。
 本当の理由はわかりませんが、私が思うに…当時は中学生も立派な動員力
だった訳で、学校側としては、その"学徒動員"として現在何名在籍している
かを国(軍?)に報告しなければならず、私のようにいつ戻れるかハッキリ
しない者は数に入れたくなかった…のではないでしょうか。。。

 今とは違い、学校側から言われた事に反論できるような時代ではなかった
ので、黙って受け入れざるを得ませんでした。
 日本という国では…戦後73年経った今でも、このような妙な数合わせ的な
隠ぺい
が、残念ながら無くなっていない気がします。

#365.土筆ヶ岡養生園 その参

Posted by KINN Tailor on 10.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 入院も長くなってくると、患者同士が仲良くなり、色々と話をする機会も
多くなりました。
 患者が居る棟は全部で3棟ありました。1棟にだいたい10名位が入院して
いて、それぞれの棟の中でコミュニケーションを取っている…という感じで
した。

 ある日、隣の棟で俳句好きな人が冊子を作っている…という事を聞き、私
が居た棟でも作る事になりました。当時は俳句を嗜む人が多く、私の棟にも
俳句の会をやっていた人が居て、その人が冊子に「踏青(とうせい)」とい
う名を付けてくれました。春の青草を踏んで遊ぶ・・という意味だそうです。
 俳句の会のお知らせも回って来て、「俳句の会に来ると、ハイク退院でき
ます
」・・・などと書いてありました。
 私は子供でしたから俳句を詠む事はできませんでしたが、会には時々遊び
に行ったものです。

 そう言えば、看護婦さん達を"あだ名"で呼んでいた事も思い出しました。
私の棟の担当看護婦さんは4名居て、その看護婦さん達に皆であだ名を付け
ていたのです。
 一番古株の主任さん、はそのまま「主任さん」「赤い顔した」倉沢さん、
「背高ノッポ」の木村さん、そして「チクリのおばさん」中村さん・・今の
ように捻ったあだ名ではなく、殆ど"そのまんま"です。
 「チクリのおばさん」中村さんについては、本人は「注射ばかりしている
看護婦さん」という意味で皆が呼んでいると思っていたようですが、実は
注射が一番下手で痛かったので、そのあだ名が付いたのでした。

 当時まだテレビはなく、楽しみと言えばラジオ放送でした。私が持って行
ったラジオが一番良く聴こえたらしく、向かいの部屋にいる看護婦さん達も、
それを聴いて話題にしていました。
 ある日、「ナイチンゲール賞の発表」というニュースをやっていました。
これは、功績が認められた看護師に与えられる名誉ある賞ですが、何と!
うちの主任さん(紅林リンさん)が受賞した…というニュースがラジオから
流れて来たのです。壁は薄く、仕切りは襖ですから、どの部屋にいた人にも
このニュースが届き、「服部さん、今受賞者はクレバヤシさんって言ったわ
よね!…うちの主任さんよね!」と言いながら私の病室に集まって来て、大
騒ぎになりました。
 この時、当の主任さんは外出中でしたが、私も主任さんの事がとても好き
だったので、夕方戻られた時にすぐにお祝いに行きました。この事が入院中
で一番嬉しかった出来事
だったかも知れません。

私の棟**

 私は血管が見えにくい体質で、毎朝打つ静脈注射がとても辛く(チクリの
おばさん
が打っていたせいか?)、その時だけは暗い気持ちになっていまし
たが、それ以外の時間は、他の患者さん達と仲良く、楽しく?、穏やかに過
ごしていました。 
 他にも・・戦時中でしたから防空演習などがあり、うちの棟からは比較的
元気だった私が代表として参加したりしました。

 そして入院してから9か月~10か月位たった頃でしょうか・・。病状が悪化
する様子は見えなかったため退院をする事になりました

〈つづく〉

#364.土筆ヶ岡養生園 その弐

Posted by KINN Tailor on 27.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 病院の入り口には見上げる程の立派な門がありました。
 このお屋敷が一体どなたの物か調べた訳ではありませんが、病院の人達が
「伊達屋敷」と呼んでいましたから、「伊達藩」のお屋敷だったのだと思い
ます。

 門を入りしばらく歩くと、間口の広い玄関がありました。そこで土足を脱
ぎスリッパに履き替えます。
 長い廊下の片側には診療室や看護婦さんの詰め所があり、反対側には大き
な襖が並んでいました。襖の部屋は病室で、畳式の日本間に木のベッド…と
いうスタイルでした。敷地は結構広く、私の記憶では全部で建物が4棟あり、
他に庭やテニスコートがありました。

 この養生所は明治の終わり頃にできたそうですが、その頃は「水道」
なかったので、創設者の北里先生が敷地の端に盛り土をして、そこにタンク
を据えて「自家水道」を作られたそうです。
 私が入院した時には勿論水道はありましたので、その盛り土をした小山だ
けが残っていて「水道山」と呼ばれ、患者さんの散歩コースの一つになって
いました。

 前回も書きましたが、当時「結核」に効果がある薬はありませんでしたの
で、まずは安静にして自然に治るのを待つ・・・という治療法でした。
 病院での日課は、検査を受けて必要な注射を打ってもらう・・というもの
で、その他の時間はベッドでおとなしく過ごさなければならなかったのです
が、私はまだ子供でしたし、体調も良かった(多分感染はしていたが、発病
はしていなかった)ので、医者の言う事を聞かずに遊び回っていました。
 病院に時々やってくる野良犬を手懐けて、飼い犬のように連れ歩いたり、
得意の模型飛行機を作って、テニスコートで飛ばしたりしていました。
 この模型飛行機は、いつの間にかファンがついて、飛ばすのを楽しみにし
てくれる患者さんが数人いましたので、私も張り合いが出て、何機も作って
飛ばしました。

伊達屋敷**

 病院で野良犬を飼った…など、今考えると「不衛生極まりない!」となる
のでしょうが、当時は特に問題になりませんでした。"入院中の子供が野良犬
を可愛がっていたら懐いて、飼う事になったのを周りが微笑ましく見守って
いた・・・”と言うような、ごく自然な流れでした。
 それよりも、子供の私でも「おかしいのでは?」と思ったのが、近所の子
供たち(健康な人達)が、養生園に遊びに来ていた事です。
 その親御さんも、養生園にどういった患者が居るかはわかっていたと思う
のですが、「感染」に対する認識が今とは全く違ったのかも知れません。

〈つづく〉

#363.土筆ヶ岡養生園の話 その壱

Posted by KINN Tailor on 13.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 今年は記録的な猛暑続きで、皆さん体調管理に気を使われている事と思い
ます。私はできるだけ外出をせず、涼しい部屋に居るようにしています。
お陰様で今のところ熱中症や夏バテといった事にもならず、どうにか無事に
過ごせています。
 私はよく人から「年齢の割にお元気ですね…」と言われます。元々、丈夫
な生まれつきだったのだと思いますが、そんな私も子供の頃には長く入院
ていた時期がありました。
 今回はその頃の話をしたいと思います。 

 私が小学校6年の時、学校の検診で「呼吸器に多少の不具合があるので、
体育の時間にあまり無理をしないように…」と言われました。ただ、胸が苦
しかったり、咳が出るような目立った症状がある訳ではなかったので、授業
は普通に受けていました。
 母は検診結果が心配だったようで、「もう少し詳しく診て頂きましょう」
と言って、知り合いの内科と呼吸器科の先生に私の検査をお願いしました。
 検査の結果は、「特に重い症状ではないから、普通の生活をして、薬を少
し飲むように…」というものでした。当時は呼吸器に効果がある薬はなかっ
たので、「ヒ素」を処方してもらいました。
 「ヒ素」と言うと、ちょっと驚かれるかも知れませんね。一種の毒薬では
ありますが、当時は呼吸器の病気に薬として用いられていたのです。

 その後は特に変わりなく過ごしていたのですが、中学校に入ってからは、
体育の授業に教練(・・・戦時中のため、中学からは軍隊の厳しい訓練が
組み込まれました)があったため、保健の先生から「しばらく学校を休んで
養生をしなさい」
と言われ入院することになりました。
 今思えば、体育の授業だけ見学すれば良かったのですが、中学生の教練と
言っても、陸軍から軍人が来て教えていましたし、銃を持っての訓練もあり
ました。そして、いわゆる軍国主義だったのでしょう…そういった教練を受
けられない人は、「養生して早く動けるように(お国のために役に立つ身体
になりなさい)」…という考えだったのだと思います。

 当時、呼吸器専門の病院はあまりありませんでしたが、運良く父のお客様
北里研究所の先生がいらして、白金にできた日本初の呼吸器専門の施療院
「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園・北里研究所付属病院」をご紹介頂き、
入院することになりました。
 ここで少し説明しますと…「呼吸器の病気」という表現をして来ましたが、
それは今で言う「結核」です。戦後は「結核という病名」をハッキリ言うよ
うになりましたが、この当時はまだ特効薬もなく「肺の病気は厄介」という
印象が強く、忌み嫌われていたため『呼吸器の病気』と言っていた訳です。

 さて私にとっては初めての入院となった訳ですが、初日に病院の入り口に
行ってビックリしました。
 それは「・・病院」と札は掛かっていましたが、昔の「武家屋敷」だった
のです。

〈つづく〉

#362.御殿場の話 番外編

Posted by KINN Tailor on 30.2018 懐かしい話   0 comments   0 trackback
 夏になると、子供の頃御殿場へ遊びに行った事を思い出します。
 ブログでもその頃の懐かしい話を何回かお話ししましたが、「いつ頃から
書いたか?」と思い、調べてみると…2012年9月に書いていたのがわかりま
した。自分としては、2~3年前の夏頃だったような気がしていましたので、
本当に時間が経つのは早いものです。

 さて、今回もちょっとその頃の話をしてみたいと思います。
 当時御殿場へ行くには、東京から電車に乗って行く訳です。以前のブログ
を読まれた方は「アレ、蒸気機関車じゃあないの?」と思われるかも知れま
せん(散々その話題も書きましたので…)。
 ちょっと説明しますと、その頃(1940年頃)は電車蒸気機関車の両方が
走っていました。全体としては、まだ蒸気機関車の方が多かったと思います。
東海道本線は国府津駅で"御殿場方面"と"沼津方面"とに分かれます。そして、
御殿場経由で沼津へ向かう御殿場線が蒸気機関車、熱海経由で沼津へ向かう
東海道本線は電車という風に分かれていたのです。
御殿場線**
 沼津方面に行くのが電車というのは理由があります。1934年に丹那(た
んな)トンネルが開通したのですが、蒸気機関車の煙を長いトンネル内に
排出
する訳にはいかない(丹那トンネルは7,804mもありますので)…と
いう事で、電車を走らせていた訳です。
 一方、分かれた御殿場線はどうかと言うと、こちらは蒸気機関車で伊豆の
山々を越えて
いかなければなりません。この山越えがなかなかの大仕事だ
ったのです。
 坂を登るためには、列車を引っ張る機関車1台では難しく、国府津駅で後
ろから押す補助の機関車を連結させていました。そして無事に山を越えると、
前の機関車の運転手が合図の汽笛を「ポ~、ポ、ポ」と鳴らします。すると
後ろの運転手が同じように汽笛を鳴らして、それに応えていました。鉄道好
きの私は、この汽笛の合図を聞くのが楽しみでした。 
 私の家は駅からかなり離れていましたが、よく聞こえましたので、空気が
澄んでいたのでしょう。
 連結された機関車は御殿場で切り離されますので、駅には何台もの機関車
が止まっていました。それを良く見に行ったりしたのですが、たまに燃料の
石炭
が駅の裏の道に転がっていたりしました。好奇心からか、拾って帰った
事があります。そして、さっそく実検!…という事で、風呂焚きに使ってみ
ました。御殿場の家は、いわゆる五右衛門風呂で、釜の下で薪を燃やす方式
でしたが、石炭を燃やすと!…さすがに火力が強く、あっという間にお風呂
が沸きました。
 当時は石炭などとても高価でしたから、普段から風呂焚きに使う事はでき
ませんでしたし、この石炭も考えれば旧国鉄のですから、今でしたらお咎め
があるのかも知れません。80年近く前の事ですので時効という事で、お許し
頂きたいと思います。

** 以前の御殿場のブログをご覧ではない方は、ぜひ2012年9月~10月
   #95~#99、2017年6月 #333,334も併せてお読み下さい **
  

プロフィール

KINN Tailor

Author:KINN Tailor
服部晋(はっとり すすむ)
金洋服店 2代目店主
10代半ばから父・金生に師事し、洋服作りを修業。
伝統的な裁断・縫製技術を磨きながら日々研究を重ね「斜面裁断」や「プルダウン」など独自の技法を開発。
近年では後進指導のための私塾やセミナーなどを開催する一方で、技術継承のためにDVD制作にも積極的に取り組んでいる。

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