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#107.店の成り立ち
先日少々意外な方から久々のお電話を頂き、お目に掛かりました。
その方は、父が修行させて頂いていた洋服店のご親戚(当時のご主人のひ孫
さんだそうです)だったのですが、父が独立してからは殆ど連絡を取り合う
事もありませんでしたので、ちょっとびっくりしました。
この方は洋服とは全く関係のない仕事をされているのだそうですが、当時
の店の記録を残したい…という事でお越しになりました。
それで、昔父や母から聞いた私共の店の成り立ちを思い出したので、今日
はその話をしたいと思います。
私の祖父は横浜で婦人服店を営んでいました。父は二男だったのですが、
長男は婦人服店へ、父は紳士服店へ修業に行く事になったそうです。残念な
事に長男は若くして亡くなりましたので、婦人服店はもうありません。
父の方は、祖父の友人が日比谷でかなり大きな紳士服店を開いていたので、
そこで10代の頃から修業を始めさせてもらったそうです。
最初はお店に何人か居た番頭さんの一人に付いて、営業の仕事から勉強し
たそうです。番頭さんにはお抱えの人力車が付いていて、それに乗って営業
に行くのですが、父は生地見本の入ったカバンを持って後から歩いてついて
行く訳です。修業というのは正にこういう事から始めるのでしょうが、かな
りの重労働だったと思います。
ご主人は、父に商売のやり方から教えて下さるつもりだったようですが、
父は商売には全く向いていなかったようで、ちっとも売り込みが上手くいか
ず、番頭さんに「お前は営業には向かないから技術を覚えなさい」と言われ
て、裁断を勉強する事になったそうです。
裁断はよく覚えたそうですから、根っからの技術屋だったのですね。これ
は一生そうで、父は売り込みとかそういった事は本当に苦手だったのです。
遺伝とは恐ろしいもので、私も幾つになっても上手くありません。正に「血」
なのだろうと思います。
さて、そのお店に修業に入って12~3年経った頃にご主人が亡くなられて、
お子さんが後を継がれることになりました。その時に「父は高級品を作るの
を主にして商売をしていたけれど、私はもう少し量を多く作る仕事をしたい
と思っている。あなたは高級品を作る修業をして来たのだから、この機会に
独立しなさい。あなたに付いていた職人は、そのままあなたに付けてあげる
から」と言われたそうです。
そこで父はこの話をありがたくお受けして、大正2年のお正月に芝に店を
構えました。父は当時金二郎という名前だったので(後に金生に改名してい
ます)、上の一文字を取って「金洋服店」とした訳です。
父は最初に技術を教えて下さった番頭さんや、開店を薦めて下さったご主
人に大変感謝していました。
今年で私共は開業100年を迎えましたが、丁度その年に父がお世話になっ
たお店の親戚の方とお会いすることができたのも、何かのご縁なのだろうな
と思います。
その方は、父が修行させて頂いていた洋服店のご親戚(当時のご主人のひ孫
さんだそうです)だったのですが、父が独立してからは殆ど連絡を取り合う
事もありませんでしたので、ちょっとびっくりしました。
この方は洋服とは全く関係のない仕事をされているのだそうですが、当時
の店の記録を残したい…という事でお越しになりました。
それで、昔父や母から聞いた私共の店の成り立ちを思い出したので、今日
はその話をしたいと思います。
私の祖父は横浜で婦人服店を営んでいました。父は二男だったのですが、
長男は婦人服店へ、父は紳士服店へ修業に行く事になったそうです。残念な
事に長男は若くして亡くなりましたので、婦人服店はもうありません。
父の方は、祖父の友人が日比谷でかなり大きな紳士服店を開いていたので、
そこで10代の頃から修業を始めさせてもらったそうです。
最初はお店に何人か居た番頭さんの一人に付いて、営業の仕事から勉強し
たそうです。番頭さんにはお抱えの人力車が付いていて、それに乗って営業
に行くのですが、父は生地見本の入ったカバンを持って後から歩いてついて
行く訳です。修業というのは正にこういう事から始めるのでしょうが、かな
りの重労働だったと思います。
ご主人は、父に商売のやり方から教えて下さるつもりだったようですが、
父は商売には全く向いていなかったようで、ちっとも売り込みが上手くいか
ず、番頭さんに「お前は営業には向かないから技術を覚えなさい」と言われ
て、裁断を勉強する事になったそうです。
裁断はよく覚えたそうですから、根っからの技術屋だったのですね。これ
は一生そうで、父は売り込みとかそういった事は本当に苦手だったのです。
遺伝とは恐ろしいもので、私も幾つになっても上手くありません。正に「血」
なのだろうと思います。
さて、そのお店に修業に入って12~3年経った頃にご主人が亡くなられて、
お子さんが後を継がれることになりました。その時に「父は高級品を作るの
を主にして商売をしていたけれど、私はもう少し量を多く作る仕事をしたい
と思っている。あなたは高級品を作る修業をして来たのだから、この機会に
独立しなさい。あなたに付いていた職人は、そのままあなたに付けてあげる
から」と言われたそうです。
そこで父はこの話をありがたくお受けして、大正2年のお正月に芝に店を
構えました。父は当時金二郎という名前だったので(後に金生に改名してい
ます)、上の一文字を取って「金洋服店」とした訳です。
父は最初に技術を教えて下さった番頭さんや、開店を薦めて下さったご主
人に大変感謝していました。
今年で私共は開業100年を迎えましたが、丁度その年に父がお世話になっ
たお店の親戚の方とお会いすることができたのも、何かのご縁なのだろうな
と思います。
#61.父の思い出 その弐
先週に続いて、もう少し父の話を聞いて下さい。
父はとても研究熱心な人でしたが、紳士服以外の事にも興味があったのか、
いろいろと「工夫」をする事がありました。
印象に残っている一つに…「洋服の生地を使って和服を作る」というのが
ありました。つまりミシンを使って縫った…という訳ですが、なぜこのよう
な事を思いついたか?…はわかりません。時代的に、母がいつも和服を着て
いたからかも知れません。
和服用のコートも作っていました。下図のように袖の所が丸く「舟形」に
なっています。後に聞いたところによると、どうやらこの「船形コート」を
作ったのは、父が日本で最初だったようです。

今では何でもないデザインのコートですが、当時としてはとても変わって
いたようで、母がこれを着て外出すると、皆が珍しがって話しかけられる事
が多く、「何とも恥ずかしい」とよく言っていた記憶があります。
当時の父は、洋服組合の副理事長をやっていたせいもあるのでしょうが、
自分の職人さんにだけでなく組合の仲間にも、海外で仕立てられた服を見せ
ては、その縫い方の説明などをよくしていました。
若手の方などは、よく仕事の相談にもいらしたようです。
普通の洋服屋さんは、燕尾服の注文が入ることは滅多にないようですが、
たまに、「服部さん!燕尾服の注文を受けてしまったので、ちょっと教え
て下さいませんか」…という事もあったようです。
こういう時も随分丁寧に教えていたのですが、時々私に・・・
「おい、ちょっと燕尾の型紙を作って差し上げなさい」と言いつけてきた事
もありました。
父は洋服業界全体のレベルを上げたい…という気持ちも随分あったように
思います。
父が服を作っている時の事を思い出してみると、仮縫いができると鏡の前
に行って服を羽織ってみて、タレ具合や身体の動きについて来るか…などを
見て、また直し、また羽織る・・・という事を繰り返していました。
「良いものを作りたい」気持が、とても強かったのだと思います。
ある日私に「プロとして仕事をするということは、その仕事を好きでなけ
ればダメだよ。好きでなければ長続きしないよ」と言ったことがあります。
まさにこの言葉通り、服作りが好きで、最後まで作り続けた人だったと思い
ます。
* * * * *
この時計は、店を改装した時に洋服組合のお仲間から贈っていただいた物
です。「明治時計社」製で、卓上時計なのに振り子時計です。

この時計は広尾の店にも飾って、ずっと使っていましたが、しばらく前に
金属の部分が擦り減って動かなくなり、部品も今では作られていないという
事で修理不能になりました。
動かなくなってはしまいましたが、父がお仲間から頂いて大切にしていた
記念品なので、今もインテリアとして店の片隅に飾ってあります。
父はとても研究熱心な人でしたが、紳士服以外の事にも興味があったのか、
いろいろと「工夫」をする事がありました。
印象に残っている一つに…「洋服の生地を使って和服を作る」というのが
ありました。つまりミシンを使って縫った…という訳ですが、なぜこのよう
な事を思いついたか?…はわかりません。時代的に、母がいつも和服を着て
いたからかも知れません。
和服用のコートも作っていました。下図のように袖の所が丸く「舟形」に
なっています。後に聞いたところによると、どうやらこの「船形コート」を
作ったのは、父が日本で最初だったようです。

今では何でもないデザインのコートですが、当時としてはとても変わって
いたようで、母がこれを着て外出すると、皆が珍しがって話しかけられる事
が多く、「何とも恥ずかしい」とよく言っていた記憶があります。
当時の父は、洋服組合の副理事長をやっていたせいもあるのでしょうが、
自分の職人さんにだけでなく組合の仲間にも、海外で仕立てられた服を見せ
ては、その縫い方の説明などをよくしていました。
若手の方などは、よく仕事の相談にもいらしたようです。
普通の洋服屋さんは、燕尾服の注文が入ることは滅多にないようですが、
たまに、「服部さん!燕尾服の注文を受けてしまったので、ちょっと教え
て下さいませんか」…という事もあったようです。
こういう時も随分丁寧に教えていたのですが、時々私に・・・
「おい、ちょっと燕尾の型紙を作って差し上げなさい」と言いつけてきた事
もありました。
父は洋服業界全体のレベルを上げたい…という気持ちも随分あったように
思います。
父が服を作っている時の事を思い出してみると、仮縫いができると鏡の前
に行って服を羽織ってみて、タレ具合や身体の動きについて来るか…などを
見て、また直し、また羽織る・・・という事を繰り返していました。
「良いものを作りたい」気持が、とても強かったのだと思います。
ある日私に「プロとして仕事をするということは、その仕事を好きでなけ
ればダメだよ。好きでなければ長続きしないよ」と言ったことがあります。
まさにこの言葉通り、服作りが好きで、最後まで作り続けた人だったと思い
ます。
* * * * *
この時計は、店を改装した時に洋服組合のお仲間から贈っていただいた物
です。「明治時計社」製で、卓上時計なのに振り子時計です。

この時計は広尾の店にも飾って、ずっと使っていましたが、しばらく前に
金属の部分が擦り減って動かなくなり、部品も今では作られていないという
事で修理不能になりました。
動かなくなってはしまいましたが、父がお仲間から頂いて大切にしていた
記念品なので、今もインテリアとして店の片隅に飾ってあります。
#60.父の思い出
創業100年を記念して金洋服店創業者・父、金生(かねお)の思い出話を
少しさせていただきたいと思います。
父の代は店が港区虎ノ門の近くにありました。
その店のすぐ裏に同姓の「服部さん」という方が居られ、この方は貴金属
の細工をなさる方でした。それで父の店で作るブレザーコートの釦(上物は
銀製でした)をよく作って頂きました。
適当な厚みの銀の板を丸く抜いて金槌でたたいて丸みを出し、裏側の糸を
かける輪をつけて出来上がりなのですが、完全な手作りなので大変味があり、
父もよく自慢していました。
お客様の中には、この釦に彫刻を施して欲しいという方もいらっしゃいま
して、家紋をお入れしたこともあります。随分凝ったものでした。
父は記念品のような物が好きで、70歳の時に自分用のベストを作り、それ
につける金属の釦をこの「服部さん」に作ってもらいました。
小さな釦でしたが5個あって、それぞれの表面に「福、録、壽、康、寧」
の文字を彫ってもらい、それをベストに付け、仕事の時に着ていました。と
ても気に入っていたようです。
この貴金属屋さんの仕事がよほど気に入っていたのか、別の時にカフスボ
タンも作ってもらっていました。それが下の写真です。

「寿」という文字も入れてもらい、結婚式に出席する際にに付けて行ったの
を覚えています。
記念品といえば…父が80歳になる年がちょうど明治100年に当たっていま
したので自分の80歳の記念と、明治100年を祝い、文鎮を作りました。
父の姉の夫は文学者で「かぐのみ」という短歌の会を主催していましたが、
その人の影響で、父も短歌を作るのが趣味の一つでした。
この時も一首作って、それを文鎮に彫っています。
「八十とせを ここにむかふる老梅の めぐみゆたかに花は咲きつつ」…

何とこの文鎮は、当時造幣局の中にある組合で作ってもらったのだそうです。
造幣局を引退した方たちが作っている組合で、こういった文鎮なども依頼でき
たのだそうですが、仕上がりが気に入ったようで父は大変喜んでいました。
まさにオリジナルの、そしてこだわりの逸品です。
少しさせていただきたいと思います。
父の代は店が港区虎ノ門の近くにありました。
その店のすぐ裏に同姓の「服部さん」という方が居られ、この方は貴金属
の細工をなさる方でした。それで父の店で作るブレザーコートの釦(上物は
銀製でした)をよく作って頂きました。
適当な厚みの銀の板を丸く抜いて金槌でたたいて丸みを出し、裏側の糸を
かける輪をつけて出来上がりなのですが、完全な手作りなので大変味があり、
父もよく自慢していました。
お客様の中には、この釦に彫刻を施して欲しいという方もいらっしゃいま
して、家紋をお入れしたこともあります。随分凝ったものでした。
父は記念品のような物が好きで、70歳の時に自分用のベストを作り、それ
につける金属の釦をこの「服部さん」に作ってもらいました。
小さな釦でしたが5個あって、それぞれの表面に「福、録、壽、康、寧」
の文字を彫ってもらい、それをベストに付け、仕事の時に着ていました。と
ても気に入っていたようです。
この貴金属屋さんの仕事がよほど気に入っていたのか、別の時にカフスボ
タンも作ってもらっていました。それが下の写真です。

「寿」という文字も入れてもらい、結婚式に出席する際にに付けて行ったの
を覚えています。
記念品といえば…父が80歳になる年がちょうど明治100年に当たっていま
したので自分の80歳の記念と、明治100年を祝い、文鎮を作りました。
父の姉の夫は文学者で「かぐのみ」という短歌の会を主催していましたが、
その人の影響で、父も短歌を作るのが趣味の一つでした。
この時も一首作って、それを文鎮に彫っています。
「八十とせを ここにむかふる老梅の めぐみゆたかに花は咲きつつ」…

何とこの文鎮は、当時造幣局の中にある組合で作ってもらったのだそうです。
造幣局を引退した方たちが作っている組合で、こういった文鎮なども依頼でき
たのだそうですが、仕上がりが気に入ったようで父は大変喜んでいました。
まさにオリジナルの、そしてこだわりの逸品です。